#CAR 想いでの車〜ブルーバード(2)

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二代目ブルーバード、型式でいうと410ブルーバードから最初に思い出すキーワードは「尻下がり」そして次が「ひさしのようなリヤウインドウ」で、この2つはボクが子供のときに父から聞いた言葉の受け売りなのだが、では父もだれかから受け売りしてそう言ったかというと、どうも本人の率直な感想だったようで、やや常識人の範疇から外れていて良く言えばハイカラ寄りだった父にしてそう言わせしめたのだから、世間一般での410評価はよっぽどのものだったのだろう。かなり多くのブルーバードファンを、デビューしたての410はガッカリさせたに違いない。

父の2大評価を耳にしてからほどなく街を走る410の姿を見たが、ああなるほど、と納得がいった。いや、言葉から想像していた以上にお尻が下がっていたし、ひさしも「ホントだ」で、どちらも初めて見るカタチとして違和感や嫌悪感などを感じたのではなく、端的に言って「古臭い」というか「新しくない」というか、いや、デビューしたての新型車であるにもかかわらず、未来とか新鮮度といったものが希薄すぎたのである。

お尻が下がっている、は古いクルマのイメージに直結した。今で言う多走行、過走行ということで、つまり足回りがヘタったクルマのことであって昭和30~40年代の日本にはそんなクルマがいっぱい走っていたのである。いや、ちょっと年数を経たクルマの大半はヘタったリヤサスを引きずって走っていた。

別にサスがヘタっていなかったとしても、多くはスタイリング上ルノーにしても初代クラウンにしてもなだらかに下がったお尻を持っていたし、一方で千代の310は先端の尖った縦長のテールランプが大きなアイコンだったことが利いていてホントはリヤサスがヘタっていたとしても凛とした小股の切れ上がった見た目を保持していたのである。

ひさしも同じように「古い」のイメージに連結していて、乗り物で例えれば、ひさしの有無はつばめの牽引機関車EF58の運転台に対する特急こだま号の運転台であり、クルマに限ればちょっと古めの大型トラックの運転台やバスのフロントウインドウにはひさしあるいはそれに類するウインドウ上部のくぼみがあったが新しい乗用車のほとんどはそんなものはなかったのであるから。もうひとつブルーバードのひさしは、室内の狭さを直感的に連想させた。

とはいえ、街の小型タクシーに410ブルーバードは、日を追って増えていき、ボディカラーは肌色のようなベージュが多かったように思う。310タクシーとほとんど入れ替わったころ、初めて410に長時間乗る機会が訪れた。父の同僚が新車で買ったシルバーの1200デラックスで、大阪市内から三重県上野への日帰りドライブだった。

ルートは、まだ西名阪は開通していなかったので、名神で京都か滋賀あたりまで行って信楽あたりを経由したように思う。助手席に乗せてもらったか、後席だったかも覚えていないのだが、インパネまわりや内装があまりにも素っ気無いなというのが第一印象で、なかでも独立したメーターナセルとボディ同色の鉄板むき出しのダッシュボードに張り付いたスイッチやコントロールレバー、さらにはダッシュ中央の上に後付けの純正時計が、いかにも古臭かった。それらのことにオーナーはお構いなしな様子で、310ブルーバードが欧州ラリーで活躍して以来、これこそ丈夫でタフなクルマといわんばかりで、素っ気無いはスパルタンに通じたのだろうか、あのころの部分的にしか舗装されていない峠道をガンガンと走り、ボクとしては乗り心地に関してもとても新しくて洗練されたクルマには思えなかった。

その後、そのブルーバードに乗せられる機会は訪れず、街でブルーバードのタクシーに乗ることもほとんどなかったのは、家のクルマもあったし、もし、主に父の兄や両親といった親戚などと一緒にタクシーを拾うことがあっても使う距離は短いので、払う料金が僅差だからどうせなら大きい中型にしよう、ということでブルーバードの小型タクシーに乗ることは、まずなかったからである。

1年ほどしてボクの一家は東京に戻ったが、タクシーに関しては、大阪時代と同じであまり小型に乗る機会はなかった。

当時、東京都内のタクシーはクラウンやセドリックといった中型が主体となりつつあり、小型がのしていたのは多摩地区だったからで、23区と多摩地区の「県境」のようなところに自宅がありタクシーといえば都心方向に向かうのが常で、大通りに出てのぼり車線の空車タクシーを拾うと、まず中型というのが相場だったのだ。

これは、「県境」をはさんでの営業に関するタクシー業界の取り決めで、互いのエリアに空車で入り込んで客を取るのは禁止されていて、例外的に県境を越えて乗車する場合はオーケーだったのである。つまり、例えば多摩地区のタクシーが多摩地区内の客を乗せて23区内へ運ぶ、あるいはその逆は許されていて、23区内で客を降ろした場合は原則的に多摩地区まで空車のまま戻らなければならないのだ。もちろん、23区内の路上で多摩地区へ行く客を拾うのはオーケーだ。23区内のタクシーは、その反対となる。

なので、小型のブルーバードに遭遇するチャンスは滅多になく、もしブルーバードを拾ってしまうと、何となく、とてもソンをした気分になった。

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#CAR 想いでの車〜ブルーバード(1)

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東京オリンピック直前の路上情景を復元するとしたら、この初代ブルーバードと初代クラウン、ルノー4CV、普通ナンバーのオート三輪は欠かせない存在だろうと自信を持って言えるほど、初代ブルーバードはしょっちゅう見たというか無意識のうちに頭に刷り込まれてしまったクルマで、もう少し考えてみるとブルーバード、クラウン、ルノーの3台はいずれもタクシーに使われる多数派であったがゆえに覚えているわけで、オート三輪もトラックの代表的な車種だったということになるのだが、もちろんタクシーもトラックもほかに多種多様なクルマが存在していたのだが、結局いずれもルックスというかアイコンが強いがゆえに記憶に強くとどまっているのだろうと思う。

それ以上にボクの記憶に強く残っている原因が、父がベタほめしてたことも大きかった。当時セドリックに乗ってた父に「個人で乗るならカキノタネがいちばん」と言わせしめたクルマで、ことあるごとに他人に勧めていた。そんな刷り込みもボクには大きい。

一方で、主にそのルーフの形から石鹸箱という呼び方もしていた。スタイリングに関しては、時代遅れで面白みに欠けるといった意味がこめられている。

当時父は日産にクルマのパーツや工場の専用工具を収める商社に勤めていた。ひいきの引き倒しのようにも思えるが、グローバルな目で見ても初代ブルーバードは「良品」「良車」であったのだろう。確かに、ルーツに小型セダンのお手本のようなオースティンA50があるし、ダットサンとしても210を経てこのブルーバードで自社製品、国産車としてひとつの完成形に至った感がある。

とにかく、マジメに質も実も、そしてほどよく造ったらこうなった、というクルマなのだ。父の評価は。

後継の410ブルーバードは、メカニズム的なことは別にしてルックス的には遊びが過ぎたのだろうか、初代が中古となってからは父の評価は益々上がった。

ブルーバードが現役のときも、そして中古となってからもあまり乗った記憶はない。乗るとしたら大半はタクシーだったのだろうが、ボクが子供のころはどういうわけか住んでいた地域に小型タクシーの姿は少なく、しかも家族は選ってまでして中型に乗るのを好むので縁遠かったのである。わずかに、たまたま流しの多摩ナンバーのタクシーなどに路上で遭遇して乗る機会があったくらいだ。

多摩ナンバーは小型が多かったし、都内ナンバーのブルーバードのタクシーは個人が多かったように覚えている。購入価格や維持費、ガレージの都合そして個人営業なりの割安感をメリットとして考えるとベターなチョイスだったのだろう。もちろん、商売の道具だから信頼性やメンテナンスの利便性なども重視されていたはず、と思う。

改めて。ブルーバードへの支持の基は、小型セダンの「典型」ゆえである。そこそこの乗り降りしやすい車高、丸いヘッドライトとバランスのよい独立したフロントグリル、セダンとして必須の4枚ドア、大きすぎず小さすぎずほどよくまとまったすべてのウインドウ、存在感のあるトランク、位置が高く視認性もよくトランク開口部を殺がないテールランプ、しっかりした大きさのバンパー。そして、必要にして十分なモールやメッキパーツの量。全体に無駄がないのである。コストを削ったことによる不自然な空白や価値を高めんがためのこれ見よがしの無意味な虚飾もない。

と、大上段に立ったようなコトを言っているが、頭に乗って続けてしまうと、ノスタルジーに昭和30年ころのクルマ、モータリゼーションの開花前後のクルマ、いわゆる旧車について語られるときにこの初代ブルーバードが話のトップに来ることがない気がするのはナゼカ、と考えてみると、これまたくどいのだが、「実」はあっても「華」についての要素が少ないからであって、実のところ4ドアセダンに加えてバン/ワゴン、トラック(ダットサントラック)と多彩なバリエーション展開で小型国産車の底支えをした功労者であることは間違いないのであって、後に、同じ日産ではマイカーブームをサニーが、高性能モデルは3代目ブルーバードのSSSやスカイラインGTが話題や注目度をさらってしまっただけのことであり、イギリス人が常にモーリスマイナーに抱くのと同様の郷愁を初代ブルーバードに抱いてもいい気がする。それほど、初代ブルーバードのつつましやかな性能や容姿は日本人の琴線に触れるのである。

と、大上段は終わり。

もちろん、ブルーバードはファミリーカーとしての座も確保していて、ボクが最後の現役を見た自家ガレージに納まっている姿は、当時住んでいた自宅から歩いてものの1分と離れていない上級生の家の最終型だった。巷にはすでに三代目が走っていたころの話だ。

ボディカラーは濃紺。

タクシーはアイボリーや薄い水色が多かったが、自家用は白系に加えてこの濃紺も多かったように思う。純粋に「自家用車」だったのだろう、曜日を問わずほとんど車庫の中にブルーバードはいた。ガレージは戸建ての玄関脇に専用の門がしつらえられていて、間口は一間ほどでちょうどクルマが出入りできるほどのサイズ。角材の門柱と背丈1メートル半ほどの観音開きの木戸が備わっていたと思うが、ほとんど開けっぱなしで、ブルーバードがそこから少し鼻を突き出していた。

上級生は女子でクルマのことなど興味はなかったようで、ほとんどブルーバードに関しての話を交わした記憶はない。そんな中、聞き出せたのは家で免許を持っているのは父だけで、そのクルマはまだ現行だった時代に中古で新車の約7割ほどの価格で購入したそうである。

父君は、上級公務員か、大学教授だったか、とにかくお堅い職業に就いていた。また、彼女には兄がいて、成人して免許をとるようになったらブルーバードを止めてほかのクルマに乗り換えるらしい、とも聞いた。とはいえ、それから数年間、兄が成人してからもしばらくはガレージの不動の主を続けていた。結局、このブルーバードは、彼女の家ではあまり活躍の場を与えられなかったかもしれない。

あるときは、こんな話も聞いた。

ある朝、父君だったか兄だったかがブルーバードで出かけようとしたところ、バッテリーが弱っており仕方なくクランクがけしてエンジンをかけた、というのである。いや、時間軸からして父君だ。

そういえば、ブルーバードはフロントバンパーの真ん中の上のほうに日産マークに似たカタチの穴が、控えめに開いている。ここからクランクがけの棒をつっこむのである。

お堅い宮仕え(失礼!)の父君にとって、すわ鎌倉!といったときにでも、手は汚れるものの確実に自力でエンジンを目覚めさせることができる初代ブルーバードは、もっとも信頼に足る「良車」だったのであろう。


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#CAR 想いでの車〜キャロル

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このクルマは、我が家では「ヒュルヒュル」と呼ばれていた。おどろおどろしい意味の「ひゅるひゅる」ではなく、軽い感じの擬音、ヒュルヒュルである。つまり、このクルマはいつもヒュルヒュルという音とともに現れ、ヒュルヒュルという音とともに走り去っていったのだ。

クルマのオーナーは、隣家の主たっちゃんだった。だから、「このクルマ」ではなく「そのクルマ」が正しいのかもしれない。知れない、というのは、個体差なのかキャロル特有の音だったのかが判然としないからだ。

この文を書く前にwikipediaでキャロルについて調べてみた。「エンジン駆動の強制冷却ファンによって側面から冷却気を導入する。このファンの音も初代キャロルの特徴のひとつとなっている。 」の一文がある。ヒュルヒュル音の正体がそれなのか、それともこの個体だけファンベルトか何かがユルくて音を発していたのか。

それはともあれ、ヒュルヒュルという軽い音とキャロルのちょっと華奢なイメージのボディとが妙にマッチしていた。

今のトールボーイ全盛の軽とは異なって、当時の軽セダンはどれも総じて背丈が低かった。キャロルもそうだ。軽のサイズでクルマらしく見えるプロポーション的バランスや重量のことなど考えると当然の帰結なのだろう。

そんな中、キャロルは軽では珍しい4ドアボディだった。2ドアもあったらしいが、路上ではほとんど見かけた記憶がない。4枚ともちゃんと巻き上げウインドで三角窓も備えている。だから、ドア1枚単位で考えると、立派なスペックなのだが実際に見るとけっこうミニチュアの世界にある。子供心にも、「ちいちゃい」と感じた。

そのころ我が家で乗っていたコロナのドアに比べれば、お屋敷の塀の勝手口、玄関ではなく庭へ入る門。そんな雰囲気だった。特にリヤドアは、薄い上にクリフカットとエンジンルームのサイドルーバーとの視覚効果で、何となく、バラの植え込みのある庭へ入る白く塗装された鉄格子の小さな門扉を彷彿させた。

ボディが、白にピンクのツートンだったことが大きいかもしれない。たっちゃんのキャロルは、フロントをぐるっと囲むトリミングモールが追加された後期型だったと思う。

たっちゃんのキャロルは、デイリーユースの高速ランナーだった。というのもたっちゃんは道路公団の職員で、毎日名神高速の豊中インターから茨城インターまでキャロルで通勤していたのである。その副産物としてキャロルの車内には大量の未清算通行券があった。というより散乱していた。

その理由はこうだ。往路ではインターの料金所で通行券を受け取るものの茨城インターでは料金所手前の事務室へ入るので清算することがない。帰路に関しては職員用通行証のようなものがあって通行券なしで料金所を出る。確かそんなシステムだったと思う。当時の通行券は、パンチカード式で普通の封筒くらいのサイズだった。

もうひとつ、ヒュルヒュルの思い出は、たっちゃんは中古で購入したときに、車検のタイミングだったのか名義変更の手続きの事情だったか、これも正確に覚えていないのだが、しばらく仮ナンバーで走っていたことだ。業者が回送用に使える「臨時ナンバー」というやつだった。そういうモノがあるというのをヒュルヒュルを通じて知った。

今考えると、360ccのキャロルがほとんど毎日臨時ナンバーで高速をフリーパスで走っていた、というのは何ともスゴイといえる話だ。

白いボディにピンクのルーフのキャロルが、出来て間もない名神高速を疾走する姿は、微笑ましいものだったのか、ちょっと悲惨さも含めた中にガンバリのある凛々しいものだったのか、それとも・・・目の当たりにしていないので何とも言えないが、クリフカットでちょっと尻下がりのリヤビューは絶対にカワイかったに違いない。

ヒュルヒュルに乗せてもらったのは、覚えている限りでは数回、ほんの近所までだったと思う。前述したように、毎日通勤で使用しているし、当時、夜にクルマで買い物とかお出かけなどといっても開いてる店などない郊外ではどこへも行きようがなかったからだ。

それゆえ、キャロルに関してのインプレッションはほとんどない。覚えているのは、子供でもかなりキツイ後席。バラ園の門たるリヤドアはアリバイ工作のための存在である。大型のアメ車のスタイリングテイストをぐぐっと縮小したボディデザイン、オシャレなツートンカラー、いっぱいあるモール類やサッシュなどなど・・・なんだか乗り込むとオママゴトの世界に踏み込んでしまったようなクルマ、それがキャロルの総合的な感想だ。だから、「バラ園」なのである。

当時から、つるバラのアーチのあるガレージに置いていおくのにもっとも似合う軽だと位置づけていた。

たっちゃんは、新婚夫婦感に赤ちゃんが生まれたこともあって、軽なれど4ドアのキャロルを選択したのだと言っていた。ほどなくして、奥さんとちっちゃな赤ちゃんが病院から帰宅した。リヤシートに収まるちょっと大空真弓に似た奥さんと抱かれた赤ちゃんと、ピンクのルーフのキャロルは、とても微笑ましいコントラストを見せていた。

その前後に、ナンバーは本ナンバーに替わり、同時に工場で整備してもらったということで、ヒュルヒュル音も消えていた。次は、高速でふらつきやすいからタイヤか足回りかなぁ、とたっちゃんは計画していたようだが、その計画が実行される前に、またヒュルヒュルという音が前より小さいもののしだした、と照れ笑いしながらこぼしていた。


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#CAR 想いでの車〜コロナ(2)

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当時我が家にあてがわれたコロナ・ピックアップは、肌色というか子豚というか、とにかくそんな感じのちょっとピンクがかった薄いベージュだった。

コロナのような中型セダンだけでなく、国産車全体でもそんなに多く見かける色目ではなかったと思う。

初代カローラや初代サニーで爆発的に増えるホワイト流行前夜といえる状況で、たいていは紺や黒、グレー、水色、エンジといったビジネスライクな雰囲気も併せ持つボディカラーが、マイカーでは多かったのだ。

ピンクがかったベージュは、時代が下った40年後の初代ヴィッツでカタログイメージカラーとして大きく扱われている。どうやらこの色は女性向きとメーカーが考えている(考え続けてきた)ようだ。

2代目コロナも、ちょっと女性ドライバーを意識していたふしがあるので、あながち狙っていなかったとはいえないかもしれない。

ただ、ビジネスモデルのピックアップにピンク系というのは、当時としてはいかがなものか……という気もする。

2代目コロナは、ボディカラーによってスタイリングイメージが異なって見える不思議なクルマだった。

メッキパーツが、フロントグリル、Cピラー、リヤガーニッシュの3点に大きく配置されていて、それぞれがボディカラーによってはハイライトとなり、色によってシマリが、べつの色によっては緩和に生きた。

子供心にそんな印象を持った。

たとえば、紺や黒ではメッキパーツが全体を引き締めてシャープでメリハリのあるスタイリングになる。

肌色ピンクでは、メッキパーツが白く映えて全体をなごやかなイメージにする。……そんな感じだ。

ボクは、肌色ボディと、とくに荒いヘアラインのCピラーとのコンビネーションが婦人用化粧品の容器やコンパクトケースとクロスオーバーして印象に残っている。

それまでの、典型的なクルマの造詣から一歩踏み出したスタイリングのさきがけが2代目コロナだったのではないだろうか、今振り返るとそう思う。

とはいえ、ピックアップのCピラーは装飾のない鉄板のみだった……。

そんな、肌色のコロナセダンと30年ほど経てから、偶然再会した。

再会とはいっても初めて遭遇したのだが。

そのクルマは、初めて通る道に建つ大谷石の塀に囲まれたちょっとしょうしゃな邸宅のガレージに、こちらに顔を向けて止められていた。

ナンバーは管轄が一文字、「5」のヒトケタ。

あまりしょちゅう乗ることはないのだろう、全体にうっすらとホコリをかぶっていた。が、タイヤの裏は黒々としていてずっと休眠しているわけでもないらしい。

邸宅は、白いモルタルの壁に青い陶器瓦ふきで、玄関の傍らにシュロが植わりテラスふうのハザード。その隣室は出窓の応接間らしき部屋。おそらく昭和30~40年代の建築だ。

ガレージは、洗車するにも十分するほどのゆったりとしたスペースのコンクリート敷き。鉄パイプでワンオフで溶接で作られた観音開きの大きな門扉。

コロナをとりまく全体が、当時のまま時計の針を止めたままのような風景に包まれていた。

当時、多くの人が理想にした中流家庭と中型セダンの理想的なコンビ。

子供のころ、コロナ・ピックアップに乗せられたことで出来上がってしまっていた「ファミリカーとして落第」という烙印は、その邸宅の前を偶然通りがかったことで、ボクの心の中から消滅した。

ああ、よかった、と思った。

そのときに抱いた好印象を失いたくないために、その後、いや今も、けっしてその道を通らないことにしている。

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#CAR 想いでの車〜コロナ(1)

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トヨタのミドルセダン、コロナは、トヨペット・コロナとしてスタートした。

現在はプレミオがトヨタ車内のポジションとマーケットを引き継いでいる。

我が家でのマイカーとしての歴史、あるいは自分で運転したりなどの何らかのインプレッションを語れるのは、2代目から10代目まで。すなわち初代と最終のコロナ・プレミオを除いたモデルになる。

我が家のマイカー史の1/3あるいは1/4は、何世代目かのコロナが占める。

まず、最初は2代目コロナ、PT20のピックアップから始まった。

ピックアップはトラックのことを指す呼び名だが、我が家で乗っていたピックアップは4ドア+荷台。現代に通用する呼び方ではキングキャブになる。当時はダブルピックと呼んでいたのではなかっただろうか。

調べてみたらPT20のピックアップは、「コロナライン ピックアップ」というのが正しいようだ。

さて、2代目コロナのピックアップは、都落ちした父が会社からあてがわれたクルマだった。

だから、本当の意味のマイカーではないのだけれど、ほとんど毎日、通勤・商用・帰宅後や休日の自家用として乗っていたのでマイカーも同然だった。

当時、コロナはすでに3代目RT40がデビューしていて、街で見かける台数もそこそこ多かった。反面、セダンも含めてPT20は路上遭遇率はあまり高いほうではなかった。

コロナは、BC戦争というフレーズまで生み出したほどのトヨタの看板車種に育つが、PT20まではあまり売れているクチではなかったのかもしれない。

PT20はリヤウインドを逆ソリにストンと切り落としたクリフカットデザインが特徴的だったが、ダブルピックはさらにリヤシート直後でルーフを切り落としたようなカッコをしている。リヤウインドから後ろは無蓋の荷台だ。

前は乗用車、後ろはトラック。

ドアはセダン同様に4枚あるものの、リヤシートは4ナンバーバンと同様に前進した位置にしつらえられていて、大人はもちろん子供でも窮屈でショボイ居住性しか与えられていない。

現在コンパクトと呼ばれるクルマたちは、4メートルそこそこの全長でもそれなりに大人が座れるリヤシート空間を持っている。フィットなどは、足も組めるのではと思わせるほど広い。

それらに比べて、当時のコロナは1.5リッタークラスのクルマとはいえ、背筋を伸ばしきちんと両足を揃えて乗ることを強要されるほどリヤシートは狭かったのである。

それより狭いピックアップ。

しかも、荷台がリヤシート分削られているとはいえ素性は荷物を運ぶためクルマである。

当然リヤスプリングは硬く、狭さに加えて乗り心地も最悪なリヤシートだった。

荷台はといえば、整理ダンス二丁を立てて載せられるかどうかといったほどの奥行きしかない。

子供心に、「荷物、人間のどちらを乗せるのも中途半端なクルマだなぁ」と感じたものである。

いずれにしても、都落ちする直前まで乗っていたセドリックとは比較にならないクルマだった。

ダブルピックは、今もハイラックスや軽自動車のいちぶなどにラインアップはある。

が、当時は、セダンとコマーシャルの中間、過渡的な種類のクルマとして子供心に印象が残っている。

それはそれで、子供心には納得できた。

何しろ、マイカー元年前夜のこと、家庭での専用車を誰もが所有するにはまだキツイ、クルマを買うには家庭用と商用の両方でというイイワケが必要な時代だったからだ。

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#CAR 想いでの車〜スバル1000

1000スバル1000は、当時のボクの周囲の大人たちも一目置くクルマだったようだ。

FFで広い室内、軽量ボディ、スバル360が築いた信頼性の継承などなど。

しかし、我が家では、簡素なルックスと1000ccのパワーがネックとなってマイカー候補へは上がらなかった。

子供だったボクの目には、スバル1000にはヨーロッパ車と共通する合理性があるように見えた。

当時、少しずつ生産国や地域ごとのクルマ作りの違いを実車や書物から知識として蓄えつつあった時期のことだ。

FFはプロペラシャフトが不要な分FRに比べて室内が広くなる、ヨーロッパ車はボディに余計なデコレーションをしない、室内ばかりでなくトランクやユーティリティも広くする合理性がヨーロッパ車の特徴、実用自家用車には過大な排気量のエンジンは不要、といったボクの聞き知るかじり、読みかじりのヨーロッパ小型車のキャラクターとスバル1000の内容はかなり合致していたのだ。

転校してきた友人の家がスバル1000のオーナーだった。ボクの友人のなかで、それまでスバル1000を乗っている家はなかった。第1号。前期か後期かはあまりよく覚えていない。ボディは、よくある明るいシルバーメタリックか白だったと記憶する。

はたして、彼の父君がボクに自慢するスバル1000の美点のほとんどが、ボクの期待通りだった。なかでも、父母と中学生の姉、小学校高学年の友人の4人乗車でも狭苦しくないことが「売り」だった。続いて燃費。さらに、エキパイがサイドシル内を貫通している合理性。

欠点はというと、「1人で乗っているときはけっこう速いけど。4人乗るとちょっとねぇ」というパワー感不足、そして夏場はオーバーヒートする兆候があること。

1度だけ、町内を中心にリヤシートに乗せてもらったことがある。

覚えている感想は、ノイジーだったこと。ボディシェルの剛性が低かったからだろうか、室内にエンジンノイズやロードノイズがエコーし続けていた。

内装やシートは、ややチープな印象だった。気になっていたトランクも開けて見せてもらった。ガランとした印象で確かに広いが、むき出しの鉄板やリブは大事な荷物をしまう場所としては頼りなさそうに思えた。

クルマと合理性の融合は、数字や幾何学上の豊かさ、ムダを省くこと。もっとストレートに言えば、ひとつの目的に徹底すること、というヘンな哲学を、そのときスバル1000から得た(後年、心変わりするが)

それまでに知りえていた数少ないクルマによる自分自身のクルマ階級のなかで、スバル1000はサニーとカローラの中間あたりに位置した。

スバル1000はマイチェンして1300が追加され顔つきが前期のフォードコルチナふうの真ん丸いヘッドライトがアクセントのシンプルなものから、つり目でサイドマーカーがやたら目立つイカツイ顔つきへと変わった。

その時点でスバル1000の合理性的なイメージは大きく失われた、とボクは感じゾッキなクルマへと評価が急落する。

しばらくして友人の父親はクルマを買い換えた。2代目カローラ(20)の後期型、格子グリルでサイドフラッシャー周辺も格子デザインが採用されたデザインだ。

実用性では意味のないデザイン処理だが、格子グリルの連続という様式美に、どこかヨーロッパのニオイを感じさせた。

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#CAR 想いでの車〜クラウン02

Rs4112代目クラウン。

ボクにとって、リアルタイムで見たり乗ったり、触れたりしたクラウンはこの世代から始まる。

先だって書いたように、初代クラウンは、ちょっとボクの年代では時期の古いクルマになってしまう。

子供心にも、初代と2代目でクラウンのルックスはずいぶん変化したことは一目で認識できた。

横並びの4灯式ヘッドライト、直線と平面で構成されたボディなど、グンと近代的にはなったものの、ボクにはどこか間延びして見えた。

さらに、ワイドで低くなったにもかかわらず、全体的にはクルマが腰高にも見えた。

おそらく、子供の目線では、ボディラインのハイライトの位置が高すぎたことが原因なのだろう。

大人になってから改めて見返すと、それほど腰高な印象はない。

さて、2代目クラウン。

ボクも父もこのクルマを常用しているオーナーは少なく、もっぱらタクシーやハイヤーなどでの乗車が多かった。

これも以前初代カローラからレンタカー普及率がグンと増えた気がすると書いたが、タクシーでは2代目クラウンからクラウンのタクシー率がグンと増えた印象がある。

歴史を紐解くと初代クラウン時代にはタクシー用としてデザイン違いのマスターがあり、2代目からはマスターもクラウンと同じデザインに統合されたということなので、さらに印象に拍車がかかったのかもしれない。

一方では、東京オリンピックを境にタクシーの台数が増えたとか、景気の上昇によってクラウンクラスの中型タクシーの比率が上がったとか、要因はいろいろありそうだ。

ともかく、2代目クラウンのころから、東京では、クラウンとセドリックがタクシー用車の2大ブランドとして本格的に定着したと思う。

子供心にクラウンに乗車したインプレッションは、まず、ガランとした広さの室内にオドロイタ。

天井はそれほど高くないが、特に横方向は、それまで乗った5ナンバー級の国産乗用車のどれよりも広かった。

もうひとつ大きく印象に残っているのがダッシュボードとメーター。

ダッシュは、すべてが横基調でデザインされアールがきいたカウンターのように見えた。

当時の電化製品も、こういったジェット機やロケットみたいなデザインに傾注していたから、当然の流れだったのだろう。

ラジオやグローブボックス、灰皿などがデザイン上スッキリと溶け込んでいて、言い換えれば、「何もない」である。

さらに、スピードメーターも横長の長方形で、針が水平移動するモノサシのような形態。

当時としては、相当モダンなダッシュまわりのデザインだったのだろうが、子供のボクから見ると、かなり材料や装飾をケチっただけにしか見えなかった。

高級なものは重厚感があり絢爛にいろいろなものが並ぶ、といった刷り込みが強かったのかもしれない。

ほとんどタクシーやハイヤーだから(特に距離も走っていただろうし、ドライバーの腕の差もあるし)、乗り心地に関しては、さほど良好とは思えなかった。

田舎道の大きなギャップでは、子供のボクでも体が跳ね上がって天井に頭を打ったことが何度もあった。

父と運転手との会話で、今も耳に残っているのが、父が尋ねた一言。

父:「クラウンは、ケツを振るだろう?」

運転手:「そうなんですよ、わだちがきつかったり、カーブをスピード出して曲がると」

父:「昔から、そうなんだよな」

リヤサスの横剛性が意外に低い(今はそんなことはないだろうが)と評価されるトヨタ車のルーツは、こんな昔からずっと引き継がれてきたのである。


2代目クラウンは、数回小変更やマイナーチェンジや変更を繰り返した。

外観的には、ボディラインなどの基本形はほとんど同じまま、フロントグリル中央の切りかきが徐々にワイドになり、リヤテールランプは初期は丸で後期は四画に変更する。

客待ちタクシーの列を見て父は、その外見上の違いで低年式・高年式を判断して、可能ならば高年式のクルマを選りだし、順番待ちなどで不可能だった場合は、低年式が当ったら乗り心地をあきらめ(距離を走っているから)、高年式が当ったらそれなりに喜んでいた。

この、ボディラインはほとんど同じだが、フロントやテールの違いは子供のボクにも一目で識別できた。

クルマのディテールの違いで、前期・後期を見分ける作業があるというのを覚えたのが、2代目クラウンからだった。

また、国産車が、たとえば初代セドリックがヘッドライトを縦から横に変化したほど大幅にではなく、小手先のディテールの変化でマイナーチェンジ等を行う流れも、この当時から本格的になった。そんな印象もある。


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#CAR 想いでの車〜クラウン01

1604519父が初代セドリックに乗っていた時代、セドリックのライバルはもちろんクラウンだった。

現在も(セドリックはフーガに変わったが)、そのライバル関係は変わっていないと思う。

ただし、当時は、スタイリングやデビュー年にり、セドリックが鮮度で少しリードしていた。

2台が道で並ぶと、やはりクラウンは古臭く見えた。

観音開きドアが初代のトレードマークであるものの、時代の流れからすれば「昔風」になる。

実際は、クラウンはセドリックよりも早くフルモデルチェンジしたので、ボクの記憶の中での父のセドリック時代に対するクラウンは、初代と2代目がクロスオーバーする。

思い出してみると、初代に乗った記憶はほとんど残っていない。

当時、父が乗るセドリック以外のクルマに乗るチャンスは、知り合いの限られたクルマかタクシーということになるが、タクシーは2代目登場とともに、初代の姿はまたたく間に消えてしまったような気がする。少なくとも、東京や大阪の街では。

ボクにとって初代クラウンで、もっとも見覚えがあるのは路上ではなくTV画面の中でだ。

なかでも印象が強く残っているのが、ドラマなどに登場するパトーカー。

アニメ「鉄人28」で登場したパトカーも初代クラウンではなかっただろうか。

と、書き進んだところで、実際のパトカーも初代クラウンを多く街で見かけた。

ナンのことはない、ボクにとってクラウンイコールパトカー、なのである。

と同時に、フェンダーにドンと据えられた釣鐘型の白いサイレンが初代クラウンのボディに見事にマッチしていたことも思い出した。

子供だったボクにとって、クラウンのパトカーはいかにも日本的なルックスを備えた「公務用車」以上でも以下でもなかったが、大人にとってはどんな存在だったのだろう? 

そんなワケで、初代クラウンにリアルタイムで乗った記憶は薄い。

唯一覚えているのは、観音開きのリヤドアは、それほど乗り降りにより有利と思わなかったこと。

また、シートに座ったその目の前でドアがバタンと閉まるのは、なんだか手や体が挟まれそうで(そんなことはありえないが)、無性に恐怖感を感じさせた。

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#CAR 想いでの車〜スバル360

Subaru_360_2スバル360にちゃんと乗ったのは、長じて、かなりフケてから。

思い出のクルマ、と書ける子供のころは、はたして長時間乗る(乗せられた)機会があったようななかったような。

どっちにしても我が家で所有したことも、父の運転する隣に乗った記憶もない。

ただし、昭和33年から10年間も製造された上、大きなモデルチェンジもなかったので、本当に街で出会う機会の多かったクルマだ。

今でも、現役、ディスプレー用、保管車などなど、360軽のなかでは遭遇率ナンバーワンだと思う。

子供心に覚えているスバル360は、初期型のデメキンの姿はほとんどなく、中期以降のレンゲの底にヘッドライトが付いているようなデザインになってからだ。

ただし、スバラシクきれいに手入れされたクルマは少なかった。

それだけ、日常的なアシとして使われていた証拠だ。

誰もがピカピカに磨いて、スバル360を大事にするようになったのは生産中止以降じゃないかと思いたくなるほど、昭和40年当時のスバル360には日々の生活を共にすごしているニオイがあった。

多少洗車をサボっているのはアタリマエ、リヤウインドのアクリルが曇ってチリメン状のヒビが入っているとか、テールレンズが白濁しはじめているとか、FRPのトップの色が変わり始めているとか、どこかブツけているとか(とくにリヤが多かった気がする)、とにかくさまざま。

FRPのトップをキャンバスに代えた「コンバーチブル」や、リヤサイドウインドがバタフライ式に下ヒンジで開くことができる「コマーシャル」、バンタイプでどこかVWタイプ2に通じるものがある「カスタム」は、子供心に面白いなぁと感じたものだ。

さて、スバル360の思い出で、強く残っているものは、小学校中学年か高学年のころの友人との思い出だ。

その友人の父が、当時スバルの販売代理店だった伊藤忠商事に勤めていた。

伊藤忠からスバルを買うと、ボディに立派なヨーロッパ家紋調のステッカーが威風を放って張られた時代だ。

友人の家に遊びに行ったところ、夕方彼の父が帰宅して、友人とボクを交えてスバル360のことをいろいろと話してくれた。

そのとき、セールス用だったろうか、一冊の図版が数多く載った小冊子を開いてスバル360の輸出仕様(450・マイア)のことや開発の歴史などを説いてくれた。

開発のときに参考にしたクルマには、代表して3台があったことが非常に印象的だった。

というのも、その頃の国産車は、たとえば日産はオースティン、いすゞはヒルマンという基礎となった技術があるか、あるいは先進的なアメ車やヨーロッパ車を参考にしたりコピーしたり、というのが主流だったからだ。

すると、スバルはカタチといいメカニズムといい、VWビートルかフィアット500ということになる。

しかし、小冊子には、両車ともスバル360と同様に空冷リヤエンジンによる合理的ななりたちの仲間、といった程度の扱いで、グローバルなセールスプロモーションの一役を買っているにすぎないのだ。

……子供のころの記憶だから、あまりアテにはならない……。

対して、参考にしたクルマは、シトロエン2CVとイセッタ、さらに名前を聞いたことも見たこともないクルマだった。

え? 何で?

2CVは大きさもずっと大きいし4ドアだ。

イセッタは、自動車というより軽というより屋根つきスクーターだ。

もう1台は、スバル360とは似ても似つかないごくフツーのカタチをした乗用車だ。

その3つを足して3で割るとスバル360になるのか?

……子供心にはどうにもこうにも解けない謎だった。

謎が謎のまま、帰宅しなければいけない時間になってしまっていた。

ボクは、友人の父が運転するR2(だったと思うのだが)に乗って家に戻った。


それからずっと、ボクにとってスバル360は、不思議な出生のクルマ、として心に刻まれてしまった。

しかも、最後のフツーの乗用車の名前がどうしても思い出せないことが、謎に拍車をかけた。


後年、大人になってから最後のクルマが西ドイツのロイト400だったことを知る。

そのころには、シトロエン2CVの徹底した合理性とすばらしい乗り心地、イセッタの卓越したマイクロカーとしての資質も知る。

ロイトは、360軽の規格よりも大きいボディだが、当時のマイクロカーとしては乗用に耐えられる資質と耐久性、信頼性、さらに発展性を持っていたことも学んだ。

スバル360は、独創性のカタマリのような成り立ちであり、かつ大成功を収めたクルマだ。

大人になってから関連書籍や実車、関係者の話を聞くにつれ、独自のアイデアやその秘話も知った。

その結果、挙げた3台のいいとこドリだけでスバル360が完成したワケではないことを知る。

たとえば、2CVは乗り心地は理想のひとつとしたが、ボディ構造もサスペンション形式(トレーリングアーム採用は同じだが)もほとんどスバル360への流用はない。そう、回顧した書籍には紹介されている。

クルマに限らず、設計・開発をスタートするときのアイデアの提供素材には、目先でカタチやコンセプトが似通っていることだけでなく、もっと広い視野で理想やターゲットを持つ必要がある。

パクっただけではダメなのだ。

もちろん、今ある現実からかけ離れるほどの理想も持ち合わせている必要も往々にしてある。

そんなアレコレを、時間をかけて教えてくれた1台。

ボクにとってのスバル360は、ソコが大きい。


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#CAR 想いでの車〜コンパーノ・スパイダー

Daihatsu_3コンパーノはダイハツが初めて本格的に手がけた普通乗用車/バンだ。

63~69年まで、一代限りで、後継はパブリカOEMのコンソルテとなってしまった。

デザインはイタリアのビニヤーレがバンを担当。

それをベースにセダン、スパイダーをダイハツが開発した、ということになっている。

スパイダーはコンパーノシリーズの殿で、2ドアセダンをドロップヘッドにしたような成り立ちの4シーターオープンだった。

だから、フロントウインドも高く、寝かされてもいないが、もともとコンパーノのボンネットは傾斜角があり、左右フェンダーラインもハッキリとしていたから、デザイン的には不自然さはなかった。

ちなみに、メーカーはコンパーノ・スパイーダーをスポーツカーとはうたっていない。

一方で、コンパーノ以外で、当時の国産メーカーでスポーツカーあるいはスペシャルティではなくセダンをドロップヘッドしたオープンを市販化したところはほとんどなかった気がする。

ダイハツは、このコンパーノスパイダー以外にもリーザ・スパイダーを作ったりコペンを作ったり、ホントに昔から希少で職人気質を大事に持ち続ける面白いメーカーだなぁ、と思う。

さて、コンパーノスパイダーは、やはり、当時も街で見かけることが少ないクルマだった。

そのコンパーノをボクが小学校低学年のときの友人の家で購入した。

けっこうリッチだった友人の家では、免許取得したばかりの奥様(友人の母)用のクルマとして買った。

女性で運転免許を持っていることは多くなく、しかも奥様専用車を取得して直後に買うというのも少ないご時勢の時代だ。

しかも、しかも出たばかりの真っ赤なオープン。

実情は、友人の家がダイハツと取引のある会社を営んでいたことが大きな理由、スパイダーを選んだのは、ダイハツでいちばん高価なクルマを購入するという条件もあったらしいが……真実は、子供だったボクにはよくわからない。

買ったはいいが、奥様が楽しんで乗ったのは初めのうちだけで、雨の日はホロによって視界は悪化するはガラスは曇るは、MTだから運転がメンドウだは、けっこう乗り心地は固いは、などなど理由をつけて、徐々に乗らなくなってしまった、ともあとから聞いた。

とくに、ホロ骨のツクリがイマイチで、クローズのセッティングがスムーズに行かないことが多く、また、きちんとかけたとしても、クルマがショックを受けたときの軋み音がひどかった、とも聞いた記憶がある。

きしみ音の原因がホロ骨そのものなのか、ドロップヘッドしたボディの剛性不足からなのか、ボクにはわからない。

どっちにしても、ホロ骨は友人の父の会社で、全面的にワンオフで作り直した、というような話も記憶に残っている。

ボクは数回、奥様運転のリヤシートに乗せてもらったことがある。

近距離のこともあったし、友人の家から1時間ほどかけて大阪中心部まで出かけたこともあった。

セダンよりも200ccアップの1000ccエンジンを与えられたスパイーダーは、奥様のクラッチワークとの相互作用でかなりの瞬発力を見せた。

うる覚えだが、スピードメーターは最高が160キロ/hまで書かれていたかと思う。

カタログデータでは、スパイダーの最高速は145/hだ。

友人は、

「140しか出ないのに160と書かれているのは、メーターには誤差があってたいがいは1割ほど多く出る。140の1割り増しやから約160ほどやろ、それでやねん。160や~! と喜んでも実際は140や。国産車はみんなそないな仕組みになってるねん」

阪神高速が1号環状線が開通し、名神高速が全通に向けて突貫工事を進めていた時代だ。

誤差の真偽も、実速140だがメーターは160を示すかどうか、父に試してほしいと頼みようにも無理なことだった。(後年にメーター誤差はホントにあるんだと知る)

ほかにもその友人からは、クルマに関して多くのことを教わった。

ボクにとって、友人と付き合いのあった3年間はクルマ第2の夜明け時代、ともいえる。

さて、話を戻して、奥様の運転でスパイダーに乗せてもらったときの大半は、オープンの状態だ。

オープンのままでも、大阪中心部では管理人やポーターがいるモータープールにクルマを預けるので、ホロは開けたままでも安心していられたようだ。

インプレッションとしては、やはり、乗り心地が固く、騒音が大きかったのを覚えている。

騒音はクルマのメカニズムからのものではなく、風きり音や周囲の町の音。

当時は、大型トラックが所狭しと並ぶ中を這いずり回るように走る、なんていうことがほとんどないほど道は空いていたが、やはり、周りを走るクルマの音が気になった。

「サイドウインドを上げると、少し静かになる」

といって、奥様と助手席に乗る友人はウインドを上げたが、リヤシートには何の影響もなかった。

リヤシートとはいえ、上空を見渡せ、体の半分以上が露出するオープンならではの乗車感覚は、特別だった。

フロントと異なって、体の向きや姿勢をある程度自分の思いどおりに変えられるリヤシートで、ボクは、公園の池などに浮かぶ手漕ぎボートに乗っているのと同じような感覚を味わった。

ただし、オープンはドライバーズでもパッセンジャーズでも、フロントに乗るべきモノだな、と深く子供心に刻んだ。


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